死生観
- A K
- 6月6日
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更新日:4 日前

6月4日、父親が亡くなった。
誤解を恐れずに言うと、私の死生観は自分の死も、家族の死も、誰の死も悲しくはない。常に明日死ぬかも?と思い、大切な人には優しく、今を全力で生きていたら死は悲しいものではないと思うようになりました。都合がいいことを言うのなら苦しいのは嫌ですよ、でも「死があるからこそ生が意味を成す」という思想には共感できます。死はネガティブな意味ではなく、終わりではないとも思うのです。
本当に「死は悲しいのか?」を深く考えず、悲しいものだと生きている事に疑問を持っていました。一般的には理解してもらえない思想とは思いますが、私なりに知見を得た結果の思想です。怪我をして痛くないと、死んでしまうくらい放置するでしょう。痛みは身体を守る防御反応。死がないと生を大切に感じないでしょう。終わりは今を精一杯生きる事に繋がる生の為の役割。
大きな決断を行う時は「目を閉じる時に本当に後悔がない選択か?」を考えるようになりました。死ぬ時に残念だったと思う選択や後悔をするより、目を閉じる瞬間に何だかんだあったが人生は楽しかった。と、思える最後の方が良くないでしょうか?死ぬ間際ではほとんどの事は赦せるのではないでしょうか。得はしなくても徳を感じて自分の心が豊かになり良いと思います。どの歳になっても改善の努力に遅いという日はないと思います。

輪廻転生を信じるなら、私は「ヒト」として生きるのは何回目なのでしょうか。この世をゲームに例えるなら、きっと弱い敵を倒したら、次は強い魔王を倒しに行く。私がヒトを創造した神ならゲームも人生もだんだんとクリアが難しくなっていく設定にしていると思います。絶対に勝つ勝負、全てが上手くいく世界、神って楽しいですかね?神は退屈で苦痛、自分は何故存在しているのか?を探求するためにヒトを創造した気がします。
私も若いころはお金持ちの方がただただ羨ましかった事も正直あったと思います。最近は最初から恵まれた環境の方を見ても「あっ人生2回目くらいなのかな?」イージーモードで人生ゲームしているんだなと思うようになってきました。徳を積んだら天国で幸せに満たされる?逆じゃないの?次はもう一段階ハードモードの来世が待っている気がします。今の人生後半から困難があるかもしれないし、来世は身体に障害を持って生まれるかもしれないし、いやいや人ですらなくて虫かもしれないし、植物かもしれない。他人は他人、自分は自分、そして来世よりも「今を十分楽しむ生き方」が自分には合っていると感じるようになってきました。

国の投資キャンペーン
死はいきなり訪れる?それとも病気で苦しむからそんなに簡単に死ねない?怪我や病気で出来ない事が増えたら、お金貯めとけば良かったと思いますかね?あなたは人生でもっとあれやれば良かったと後悔する人生ですか?それとも、いやーやりたい事やっといて良かったーと思う人生ですか?歳を取ると時間やお金から楽しみを引き出す能力は落ちていくと思います。もしもの保険やお金はたくさん必要なのでしょうか。
株式会社が生まれて何年たったのでしょうか?1873年(明治6年)に設立された「第一国立銀行」からだそうです。150年もの間、誰にでも投資の機会はあったはず、お金持ちになる機会はあったはずなのに、なぜ知らされてこなかったのでしょうか。なぜ昨今になって投資を勧める広告が増えたのでしょうか。資本主義の限界に近づきリセットされるのか?我々庶民から資本を集める必要が出てくるとは、不都合な真実がありそうなのは陰謀論なんですかねー。信じるか信じないかは、、、、、あなた次第です笑。
確実なことは、現在の日本は不安を煽る情報にあふれていて自信と覚悟を試されている時代と思います。歳を取り路頭に迷うのは誰だって望んではいないと思いますが、本当に必要なコトは賢い投資より、自己投資をしてどんな時代が来てもサバイブできる能力が一番良いのではないかと思っています。小賢しい賢さは要りません。苦しくても道はそれしか開けないし、苦労を楽しんだ方が楽しさも強く感じる気がします。

欲しいモノはなにもない
歳をとって死ぬ間際に、大きな家は欲しいでしょうか?高級車は欲しいでしょうか?ブランドの洋服が欲しいでしょうか?私は自分が満足なお金を稼いだ事もなく、人生はお金ではない。という発言はしたくなかったのでやれるだけやってみました。自分では欲深い人間と思っていましたが、意外と早めに欲しいものはなくなり、モノの所有で心が豊かになることはなくなりました。
12歳頃から洋服に興味を持ち、美学を感じ30年以上が経ちました。昨今のハイブランドと言われるファッション市場を見るとロゴや視認性の高い服が増えたと思います。人に何かを伝えるには効率はよくなったとは思いますが、共感したいと感じる人達は洋服で自己表現する場からは離れていった様に感じます。
お金持ちなのか?豊かなのか?は違う気がしますね。ある人の言葉を借りると「別に高いモノが嫌いではないんだけど、歳を重ねてもブランドモノを着てドヤって顔をしていると、本当に中身のない人だと思われますよ」を思い出し、自分と周りを見渡すと、、、確かに中身を感じないわ。。。と思ってしまったのも、あれだけ好きだった洋服への熱量が落ちた原因かもしれません。
幼き頃からの探求の答えはもう出た様な気がします。オシャレとは絶対的か?相対的か?と言えば、「相対的」な存在と思います。服は主観的であるべきか?客観的であるべきか?と言われれば、「どちらも有り」と思います。
オシャレな人と認識されるには、周りも同じ美学を持ち相対的に変化しオシャレと感じると思います。東南アジアに行き、ハイブランドを着てイキっていてもほとんどの人達は知りません。そんなことより価値観は他にあると考えているはずでスベってますよね。場に必要な調整が出来る人が「オシャレな人」でしょうね。
それに対して、服は主観的に自分の好きなモノを着て楽しむのもあり、客観的に評価されるモノを好んで着るのもありと思います。
私の服の価値観は「絶対的で、主観的」が好みです。ゆえに「私はオシャレではないですが、自分が着たいモノを着ます。」服は自分に一番近い環境という表現が私にはしっくりきますので、良くも悪くも段々ミニマルになってきました。
本質に向き合う為に必要なコトはそう多くはない気がします。バランスを取りながら、丁寧に終わりに向き合うのも悪くない。もし、次に何かを生み出す事があるのなら本質を感じるプロジェクトがいいなと思う今日です。
直感で生きるタイプなのに深く考え、迷走した日々もありましたが意味はあったのでしょう。欲は減ってしまったがそれでも腹は減る。そろそろ動きだしますか。今のところいつ終わりが訪れても後悔はない。
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