欲の消える瞬間に魂は澄む
- A K
- 6月6日
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更新日:11月8日

終わりをデザインする
6月4日、父が亡くなった。その知らせを受けたとき、私は不思議なほど悲しみを感じませんでした。仲が悪かったわけではありません。むしろ晩年には、会う回数は少なかったですが父と理解度が深まり、互いの価値観を語り合えるようになっていました。それでも、心の奥から悲しみが湧き上がることはなかったのです。
私の死生観はこうです。「自分の死も、家族の死も、知人の死も、悲しむべきものではない。」
なぜなら、私は常に『明日、自分が死ぬかもしれない』と思いながら生きているからです。そして、死が訪れるその時が来ても、後悔なく生き切ったならば、死は悲しみではなく、一つの過程であり、次なるステップであると感じています。
「死があるからこそ生が意味を成す」という考えには、私は深く共感しています。死は単なる終わりではなく、むしろ私たちが「今」をどう生きるかを決定づける力を持っているのです。
以前から「死は本当に悲しいことなのか」と疑問を持っていました。日本の文化の中では少数派の考え方だと思いますが、私なりに考え抜いた末に辿り着いた結論です。人は痛みを感じなければ身体を守れず、死の恐怖がなければ命を軽んじる。死の存在は、今を精一杯生きるために人間に備わった『機能』だと考えます。
大きな決断を下す時、私はこう考えます。「目を閉じる時、本当に後悔しない選択をしているだろうか?」死ぬ瞬間に、「もっとこうすればよかった」と後悔するよりも、「人生、いろいろあったけれど、楽しかった」と感じられるような最後の方が良いのではないかと思うのです。死ぬ間際には、ほとんどのことを赦せると思います。その方が、得をしなくても徳を感じて、自らの心が豊かになると感じるのです。年齢を重ねても、改善することに遅すぎることはないと思うので意識すると豊かな人生になると思いますね。

人生はゲーム?
寿命と健康寿命は異なると言われますが、実際に自分がどれくらいの期間健康でいられるかは誰にもわかりません。ある日突然、体調が崩れ、命の危険に直面することがあります。それが「死」というものです。
若い頃、私はそんなことを考えもしませんでした。ですが、パンデミックを経て年齢を重ねるうちに体調に不安を感じることが増え、私は突然、『もしかしたら、人生はもうすぐ終わるのではないか』と思いました。それがきっかけで、今、この瞬間をどれだけ大切に生きるかを考えるようになったのです。
もし輪廻転生があるのなら、私は「ヒト」として何回目の人生を送っているのでしょうか?もし輪廻転生や人生をゲームにたとえるなら、弱い敵を倒せば次はより強い敵が現れる――そんな仕組みなのかもしれません。もし私が神なら、人生もゲームもだんだんと難しくなる設定にすると思います。全てがうまくいく世界を作ることが、本当に楽しいのだろうか。きっと神でさえ退屈し、自らの存在理由を探し始めるのではないでしょうか。 その結果、神は人間を創り、人生というゲームを始めたのかもしれません。(誤解のないように言えば、私はスピリチュアルな信仰者ではない。ただの思索である。)
若いころ、私は恵まれた人々をただ羨ましく思っていました。今では、最初から恵まれた環境にいる人を見ると「この人は人生二周目くらいなのかもしれない」と思います。いわば“イージーモード”の人生ゲームをプレイしているのだと。徳を積んで天国で幸せに――というより、次の人生はより“ハードモード”になるのではないかとすら思います。後半には困難が訪れるかもしれない。来世では、身体に障害を持って生まれるかもしれない。あるいは、人間ですらなく、虫や植物として生まれるかもしれない。そう考えると、他人には他人のステージがあり、自分には自分のステージがあると納得できます。
私はどんな壮絶な生き方の人でも、同情も悲観もしなくなりました。その試練には意味があると思うからです。どんな裕福な人に対しても嫉妬や羨望は抱かなくなりました。人生一回目のイージーモードで生きている初心者だと考えるからです。
他人は他人として、自分の成長に合わせて「今を楽しむ生き方」が、自分には最も合っていると感じています。

欲の消える瞬間に、魂は澄む
30代後半を迎えると、自然と欲しいものが少なくなってきました。これまでの経験や時間の中で、何が本当に大切なのかを少しずつ理解し始めたからかもしれません。21歳で自衛隊を辞め、アパレル業界に転職した頃の夢は――「おしゃれな服をたくさん買って、センスのいい家に住み、おしゃれな店で食事をして、表参道をバイクで走り回ること」今振り返ると、なんとも小さな野望だったと感じます。
気づけばその夢は叶っていて、しかも1年も経たずに飽きてしまいました。借金をしてしか買えなかったブランドも、今はあまり深く考えずに買い、着ていない服は友人が欲しければあげてしまうようになりました。あの時、自分の中で何かが変わったのだと感じます。
後悔はありません。満たされるまでやり切ることは大切だとも感じます。「人生はお金じゃない」と言うためには、まずお金を使い切る経験が必要だと思っています。結果、稼ぎは大したことがなくても満たされ、燃え尽きたような感覚に包まれました。
歳を重ねて死ぬ間際に、大きな家や高級車、ブランド服が本当に欲しくなるだろうか。自分では欲深い方の人間と思っていましたが、意外と早く「欲しいもの」はさほどなくなり、モノの所有によって心が満たされることもなくなっていきました。私の場合は無欲な高尚な状態になったというより、急に欲が退廃したという方が近いため、最初は焦り、慌て、抗いました笑。
ファッションと価値観
12歳の頃から洋服に興味を持ち、美学を感じて30年以上。近年のハイブランド市場を見ると、ロゴや視認性を重視した服が増えました。情報伝達としては効率的ですが、自己表現としてのファッションの情熱は失われたように感じます。
「お金持ち」と「豊かな人」は違う。ある人が言っていた言葉を思い出す。「高いものが嫌いなわけじゃない。でも、年を取ってもブランド物でドヤ顔してたら、中身のない人間に見えるよ。」確かに、自分も周囲も見回すと“中身を感じない人”が増えたように感じました。それが、かつて夢中だった洋服への情熱が薄れた理由かもしれないです。
さてここで少しそれますが、オシャレとは「絶対的なものか?相対的なものか?」服は「主観的で着るのか?客観的に着るのか?」何が正解なのかという疑問がありました。
結論はオシャレとは「相対的なもの」ですが、服の価値は「主観的でも客観的でもよい」です。相対的とは周囲との美意識のバランスが取れてこそ“オシャレ”と呼ばれると考えます。理解できる人がいない状況だと”オシャレ”ではなく変な格好をした人です。一方で、自分の好きな服を自由に楽しむ主観的でも、周囲のバランスを取る客観的でも、服の価値観としては正解だと思います。ちなみに私の服の価値観は「絶対的で主観的」。つまり、オシャレとは思われないが哲学を感じる、他人を意識するより自分が着たいものを着ます。私は服というものが、もはや自己表現の手段ではなくなったことを感じました。私の場合、服はもはや、他人の目を気にするために着るものではなく、自分自身の心を映す鏡となっているのです。

終わりに向き合う
父が末期を告知された時、質問したいことがありました。“人生の最後に、何が一番大切だったか?何が一番の後悔だったか?”聞きたかったのですがそれは叶わなかったです。死を意識するようになると、ふと考えることがあります。死ぬ間際に、大きな家が本当に欲しいでしょうか。高級車を手に入れたいと思うでしょうか。ブランドの洋服を身にまとうことに、どれほどの意味があるでしょうか。
死は、いきなり訪れるものなのでしょうか。それとも、病気で苦しむ時間を経て、そう簡単には迎えられないものなのでしょうか。怪我や病でできないことが増えたとき、「お金を貯めておけばよかった」と思うでしょうか。あなたは、人生の終わりが突然来た時に「もっとあれをしておけばよかった」と後悔するでしょうか。それとも、「いやぁ、やりたいことをやっておいてよかった、満足」と静かに笑うのでしょうか。
私も歳を重ねるごとに、時間やお金から喜びを引き出す力が、少しずつ落ちていくのを感じます。だからこそ、いまの一瞬を大切に使うことが、何よりの豊かさなのだと感じています。
終わりの先にある始まり
私は本質に向き合うために、必要なものはそんなに多くないように考えます。バランスを取りながら、丁寧に終わりに向き合うのも悪くないと思います。今は少し意欲が落ちていますが、もし次に何かを生み出すことがあるなら、本質を考えるプロジェクトにしたいと考えています。
直感で生きるタイプの私は、深く考え、迷走した日々もありましたが、それも無駄ではなかったのでしょう。欲望が急に減ってしまったことに気づいたものの、それでも腹は減るものです。そろそろ動き出す時が来たのかもしれません。今のところ、終わりがいつ来ても後悔はないと感じています。そのときが訪れたときには、ただ静かに受け入れ、満ち足りている自分でいられるような気がします。
立ち止まることも、終わりを見つめることも、次の始まりの準備なのかもしれません。欲や焦りが消えた今だからこそ、ようやく“自分のまま”でいられるような気がします。終わりを恐れず、本質に向かって静かに歩み出す。その一歩こそが、私にとっての新しい始まりの様に感じます。


