死ぬ時に通帳の桁を数える暇はない
- A K
- 2021年8月27日
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更新日:11月3日
『DIE WITH ZERO』という本を読んだ。良書だと感じたが、深い感動はなかった。なぜなら多くの部分で共感し、すでに自分の中に存在していた思考の再確認に過ぎなかったからだ。だが、それでもこの本は確かに、現代における「生きるとは何か」という問いに鋭く切り込んでいる。

要約すればこうだ。ほとんどの人は七十歳で資産のピークを迎える。しかし、それは本当に正しいのか?老後の安定よりも、いまこの瞬間にしかできない経験に時間とお金を使うほうが、より豊かな生ではないか。
経験の価値を信じる。モノの価値は時間と共に下がるが、経験の価値は時間と共に思い出として上がっていく。経験から楽しみを引き出す力は落ちるので、使いもしないお金を稼ぐのはやめるべき。
ゼロで死ぬ。死ぬときに余っているお金は無駄。死ぬときに持っているお金は過去の自分から奪った時間の代償である。養うために忙しく働くのはいいが、子供の幼少期に共に過ごす時間は二度とやってこない。
お金の価値を引き出せる力は加齢とともに衰えていく。例えば30歳では元気にできるスポーツは沢山あるが、80歳ではできるスポーツは限られている。旅に出てもアクティブには動けない。
健康低下、興味減弱、性欲減退、想像性低下。
老後の自分は思っているほどお金は使わない。

私の死生観
人は必ず死ぬ。だからこそ、死を強く意識することで、いまをより大切に生きられるのだと思う。私は人生の岐路に立つとき、ひとつの基準で判断する。
――「死ぬ瞬間、目を閉じるその時に、後悔するかどうか」。
もしその選択をした自分を思い浮かべて心が穏やかであれば、それは正しい。
正解や不正解を他人に求める必要はない。
「何が正しいか」ではなく、「自分は何をしたいのか」。その一点に忠実でありたいと思う。
「正しいより、楽しい。」
「正しいより、面白い。」
軽く聞こえるかもしれないが、 “今、自分は楽しいか?”――その問いに“はい”と答えられるなら、それでいい。
未来も、病も、事故も予測できない。だからこそ、今を全力で楽しむ。後悔のない判断を積み重ねる。 その生き方こそ、いつ死んでも悔いのない人生を形づくると思う。
お金より、好奇心を
お金やモノでは幸福度は上がらない。私は自分の寿命までに使う分を稼いだら、静かに引退しようと思っている。お金よりも、好奇心を優先して生きたい。所有しようとするから、より多くを求めてしまう。けれど、所有しない生き方もまた、豊かで自由なものだと感じている。
苦労を楽しもう
来世に資産は持ち越せない。相続税など九十九パーセントでも構わないと思う。人生とはどれだけ高く登るかではなく、自分の足でどれだけ登れたか、その“上がり幅”を楽しむものだ。だから、私は子孫に一円も残さずに使い切るだろう。楽して得たものには、真の価値を見いだしにくい。苦労こそが、人生を立体的にする。――苦労を、楽しもう。
生きる理由
「Why to live, how to live. Not to just survive.」どこかで読んだこの言葉が、いまも心に響く。コロナ禍という混沌を経て、私は“生きる”とは何かを改めて考えた。人生とは、生き残ることではない。“なぜ生きるか、どう生きるか”――その答えを探し続けることこそ、生きるということなのだと思う。夜明け前に、明日を感じながら。




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